2013年12月22日日曜日

サラダ・ボウルで化学反応。

東京経済大学の本藤です。今日は写真なしのテキストのみですみません・・・。

12月21日に、東京経済大学経営学部のゼミ研究報告会が開催されました(このニュースは、きっと大学広報から紹介されていると思われます)。経営学部や総合教育の多くのゼミから日頃の研究成果がプレゼンされました。なにこれ?ってくらいの凄い人口密度!いつもは、閑散としがちな土曜日なんだけど、1号館の3階と4階の廊下も教室も学生、教職員、一般の方々も入り乱れて、もしかしたら平日よりもごった返していたかもしれません。

延べ報告コマ数は100近く!テーマも研究手法も多岐に渡っています。例えば、最近注目度の高い統計学を駆使した報告では、その手法が分かり易く説明していたんですよね。分かり易く説明することって、完璧に理解していないと難しいんですよ。報告している学生が「知る」だけじゃなくて「伝える」機会があると、理解を深められる動機ができるわけで、これは素晴らしい機会になってますね。そんなふうにチャンスとして活かされるのは、数字を使った定量的な分析に限った話じゃなくて、事例を中心とした定性的な分析も同じです。念のために言うと、経営学や商学だけでなく、総合教育においても全く同じだし、中学や高校の勉強も同じですよね。友達に教えているうちに理解が深まることってありますよね。

今年は、例年よりも広く見て回ってみたんですけど、じっくり聞いていると、例外なくすべてのゼミが真剣に日々の研究活動に取り組んでいる熱意が伝わってきました。学生ひとりひとりのパッションが伝わってきました。プレゼン前で緊張している学生やプレゼンが終わってホッとしている学生、直前対策を話し合っている学生たちや反省点を出し合っている学生たち。失敗しなくても成長することはできますが、大きく変わることはできないと僕は考えています。自分の中で「変わりたい」と思っても、なかなか旧態依然とした生活に甘んじてしまうんですよね。でも、大きな失敗をしたことで、強い変身願望が生まれて、変身欲求になることは体験したことありませんか?失敗という経験は、自己成長にの大きなきっかけになるんですよね。

そんな学生ひとりひとりが変身していく一コマ一コマを目にしてつくづく感じるのは、ゼミは学生時代最後に与えられた「再起動のチャンス」だってことです。

これまでは「覚える力」が求められて、テストで試されてきたんじゃないですか?そして、覚えていないものは覚えなさい、理数系でも解法のパターンを覚えなさい、というような勉強が多かったんじゃないですか?
でも、大学でゼミの勉強が始まってからは、(覚えることはたくさんあるけれど)その上に「考え出す力」や「形にする力」が求められるんです。「試験で答えられるように覚える」のではなく、「応用して活用していくために考える」のです。その目的は、考え抜いた末にたどり着いた研究成果物になるんです。

僕の個人的な意見ですが、大学教育というのは、専門学校のように社会人としての技術を学ぶ場所ではありません。もっとモノゴトの本質を見る目を鍛錬する場所だと思っています。何を学ぶのか?何を体験するのか?それが見えてくるのは、自分自身の知的好奇心がピピッ反応するアンテナの張り方によっても変わってきます。
探究するのは、同じような興味を持った人との議論の深め方かもしれませんし、たどり着いた成果そのものかもしれませんし、自分が発見した成果の伝え方かもしれません。多くのゼミでは、これら全部を目指していくチャンスがあるはずです。
専任教員の数だけゼミが開かれていて、テーマも多種多様ですが、ゼミ活動の共通項が「真理を追究する」ということは全教員の共通認識だと思うんです。

私が受け持つ本藤ゼミは、ゼミ創設以来、企業とのコラボレーションを基本活動としてきましたが、最近は悩み始めているんですよね。たしかに、実務的な考え方やビジネスの現場を学べる機会ですし、大倉喜八郎が目指した実践教育の遺志に沿っているとは思っています。
本藤ゼミ創設当時は、コラボをやるゼミがほとんどなかったので、差別化のために導入してきたのですが、最近は産学連携が様々な分野に浸透してきて、コラボ自体が差別化にならなくなってきたこともあります。

その他の自問自答も出てきます。
プレゼンに間に合わせるために帳尻をあわせてはいないだろうか、基本的な知識が欠落したまま議論しているのではないだろうか、就職だけのためにやっているのではないだろうか・・・。基本的な理解をしっかりしないままプレゼンをしても、そのプレゼンは相手を動かすことはありません。プレゼンは取り繕えても、質問に対しては、相手を納得させられません。本当に努めることなく、付け焼き刃で「かわしてしのぐ」ことに終始するようになり、結果的に「真理の追究」とは程遠い場所に行ってしまうのです。
それでは、締切を設定しなければ、じっくり研究や議論ができるかと言うと、だらだらしてしまって、集中力が高まる心理状態にならなかったりするんですよね。最悪な状態は、自分の意見の主張に拘泥する人と人の意見に迎合する人が導き出す成果は価値のある成果になりえるでしょうか?

大学教員というのは、研究だけに頭や時間を使っているわけではありません。個人差はありそうですが、時間の量だけを考えたら、ゼミの関連業務やゼミ生への対応時間の合計は、みなさんが想像している5倍はあると思ってくださって間違いないと思います。通常の授業であっても、経営学や商学といった学問領域は、新しい事例や研究成果が次から次へと出てきて、新しいことを取り入れようとすれば、これまた大学生向けの教え方を考えなければなりません。

でも、大学教員もみんながみんな自信満々に、自分が学生に示したことに確信をもって、そして引っ張っているわけではないと思います(少なくとも僕は確信をもっていませんし、いつも悩んだり迷ったりしています)。間違いないことは、大学教員も、それぞれの教員の価値観に基づいて、(研究だけでなく)あるべき教育にも心を砕きながら日々を過ごしてるということです。

ゼミには、引っ込み思案な学生もいれば、自分勝手な発言を繰り広げる学生もいます。責任感のある学生もいれば、そうではない学生もいます。謙虚な学生もいれば、自信過剰な学生もいます。パソコンに強い学生もいれば苦手な学生もいます。絵が上手だったり、語彙が豊富だったり、リーダーシップがあったり、事務能力が高かったり、様々な能力や多様な人格が集うゼミというコミュニティは、だからこそ発見できる真理もあります。
だからこそたどり着けない真理もあるのかもしれませんが、それは自分で追究すればいいので、やっぱりゼミのようなプチ「サラダ・ボウル」という化学反応を起こせる環境は貴重だと思うのです。

毎年「何かをつかみたい」という意欲を胸に抱いて、ゼミには「新入生」がやってきます。そして、多くの何かをつかんで旅立っていく人もいれば、残念ながらそうではない人もいると思います。「つかめる人」は、素直な性格であることが必要条件ですね。反省よりも弁解や主張が先行する人は、レクチャーもディスカッションも活かしづらいような印象はあります(指導する教員の教育方針にもよりますね)。

いずれにしても、大学時代にゼミに所属しないことは大学に入学した意味がないということだけは断言できます。ゼミでの活動が、大学生活において「最大の成長機会」だということは間違いないと思うのです。僕たちが悩んだり迷ったりし続けているのも、自分のゼミへの愛着はありますが、ゼミ生ひとりひとりへの責任を強く強く感じているからなんですよね。でも、ここで感じている責任は、決してゼミ生を全員就職させるためではありません。僕は「真理を追究するとはどういうことなのか」を理解してもらうためだと思っています。大学のゼミの付き合いが、将来に渡って長く続けられるのも、そういう普遍的なテーマを共有しているからだと思っています。
 
ゼミ研究報告会で、数多くのゼミの成果報告を聞いていて、そんなことを再認識してしまいました。


文責:本藤貴康(流通論、流通マーケティング入門、地域インターンシップ担当)