2013年12月30日月曜日

11×183年

もう、いくつも寝ずにも年明けですね。
2度目まして。経営学部の森岡です。

さて。
2013年、皆さんにとってどのような年でしたか?

ちょっと今年を振り返ろうと思って、Googleでなんとなく「2013」を検索してみたのですが、意外や意外、どうやら「2013」は素数ではないことが分かりました(2013は、実際、11と183に素因数分解できます)。ご存知のとおり、素数とは、「1」と自分自身以外に割り切れる自然数をもっていない自然数です。英語では“prime number”と言います(偉そうに書いていますが、さっき辞書で調べて知りました)。

偶然は必然。柳瀬先生がそのような記事を書いていらっしゃいましたが、私も、この出会いに身を任せて、今年最後の記事を書いてみようと思います。

とは言っても、素数について熱く語れるほどの数学的素養をあいにく持ち合わせておりません。そこで、さっき知ったばかりの“prime”から発想されることを書いてみようかと思います。

“prime”を辞書で引くと、第一義として、「最も重要な(形容詞)」と出てきます。それ以外では、「根本的な」や「互いに素の」などが“prime”の意味として出てきます。素数は後者2つの意味に関連しているのでしょうね。ちなみに、「入れ知恵をする(動詞)」という訳語もあるみたいです。どっかの意地悪な入試作成者が出したくなるような訳語ですね(適当に言っているだけですが、本当にどっかの試験で出題されるようなら、私は何らかの罪を疑われるのでしょうか…)。

失礼。脱線しました。話を戻します。
私が注目したいのは、“prime”の第一義である、「最も重要な」という部分です。前回、私は、大学教員の「よろこび」についてポストしました。学生と共に新しいものを生み出すために融合ると。さらに、その背景には、融合ることの重要性を「研究」をとおして理解していることがあるのも併せて。

勘のいい方なら気づいているかもしれませんが、一般的に言って、大学の教員が高校までの教師と異なるのは、この「研究」を“prime”としているという点です。大学教員にとって、研究が、いや、研究こそがすべての活動のエンジンになっています。

そして、この大学教員のprimeに焦点を合わせてみると、面白い現実が見えてきます。

ここでは、日本学術振興会の「科学研究費助成事業」(通称、科研費)について見てみましょう。何やら難しい言葉が並んでいますが、かなり端的に言えば、この事業は、国民皆様の税金の一部を、広い意味で社会に役立つ研究の展開に使いましょう、というものです。

東京経済大学経営学部の場合、45人の専任教員がいますが、そのうち9名の教員が科研費のリーダーになって研究をしています(2013年12月現在)。ちょうど20%です。他方、受験期における「偏差値」で言えば本学部より上にあるいくつかの大学の経営系の学部について、同じ割合が、20%をずっと下回るものがいくつもありました。誹謗と勘違いされるのは心外ですので、あえて大学名と数字等は記載しません。気になるようでしたら、すべて公開されている情報ですので、皆さんご自身で、科研費サイトと各大学のウェブサイト等を調べてみてください。

さて。
あくまで、科研費の採択状況は研究に対する1つの見方であり、上記の計算も一例でしかありません。しかし、大学における「研究」状況と、(受験期に)社会的なステータスと思われている「偏差値」とは必ずしも一致していないのです。

先に述べたとおり、研究は、大学教員にとってすべての活動のエンジンです。新しい知識を生み出すために必死になるからこそ、その楽しさを学生にも知ってもらいたいと思います。そのために、講義や演習に様々なシカケを考えます。

よいエンジンを積んだ乗り物は、ずっと遠くの、まだ見ぬ新しい土地へと私たちを連れて行ってくれます。大学も同じかもしれません。よい研究を行っている大学は、好奇心をくすぐるような講義や演習をとおして、きっと皆さんに新しい経験を提供してくれることでしょう。その経験を経てたどり着いた場所は、キラキラ輝いています。

誤解がないように言っておきますが、偏差値を「1」向上させる努力がつまらないものだということでは決してありません。むしろ、目標に向かって必死に努力するという意味で、また、勉強の基礎体力をつけるという意味で、そのプロセスの重要性は何ら変わりません。ただ、それだけにとらわれて、結果として自分を卑下することも、威張ることも大学においては重要ではないということです。キラキラ輝いているところを一緒に見ようとする意志こそ重要なのです。

ある同僚の先生と新宿の飲み屋でこんな話をしました。
「お互い、どっちが早くいい論文を書けるか勝負しましょう!」
別な同僚の先生とは、ハンバーグを食べながらこんな話をしました。
「いいジャーナル(学術雑誌)に載せることだけが、重要じゃない気がするんだよね。どれだけ、真実に近づいているのか、それを見極めないと・・・」

競争でもあり、価値観の追求でもあり、教育の源泉でもあり、そして、生きがいでさえある研究。そんなことを想いつつ、「prime numberではない2013」年を大いに反省する私です。具体的な研究の話は、また来年。

おっと、2週間後に応募期限の迫った論文原稿を仕上げなくては。。。

2014年も皆さんにとって素晴らしい年になりますように。
では、よいお年を。


文責:森岡耕作(経営学部専任講師:マーケティング論他担当)

2013年12月22日日曜日

サラダ・ボウルで化学反応。

東京経済大学の本藤です。今日は写真なしのテキストのみですみません・・・。

12月21日に、東京経済大学経営学部のゼミ研究報告会が開催されました(このニュースは、きっと大学広報から紹介されていると思われます)。経営学部や総合教育の多くのゼミから日頃の研究成果がプレゼンされました。なにこれ?ってくらいの凄い人口密度!いつもは、閑散としがちな土曜日なんだけど、1号館の3階と4階の廊下も教室も学生、教職員、一般の方々も入り乱れて、もしかしたら平日よりもごった返していたかもしれません。

延べ報告コマ数は100近く!テーマも研究手法も多岐に渡っています。例えば、最近注目度の高い統計学を駆使した報告では、その手法が分かり易く説明していたんですよね。分かり易く説明することって、完璧に理解していないと難しいんですよ。報告している学生が「知る」だけじゃなくて「伝える」機会があると、理解を深められる動機ができるわけで、これは素晴らしい機会になってますね。そんなふうにチャンスとして活かされるのは、数字を使った定量的な分析に限った話じゃなくて、事例を中心とした定性的な分析も同じです。念のために言うと、経営学や商学だけでなく、総合教育においても全く同じだし、中学や高校の勉強も同じですよね。友達に教えているうちに理解が深まることってありますよね。

今年は、例年よりも広く見て回ってみたんですけど、じっくり聞いていると、例外なくすべてのゼミが真剣に日々の研究活動に取り組んでいる熱意が伝わってきました。学生ひとりひとりのパッションが伝わってきました。プレゼン前で緊張している学生やプレゼンが終わってホッとしている学生、直前対策を話し合っている学生たちや反省点を出し合っている学生たち。失敗しなくても成長することはできますが、大きく変わることはできないと僕は考えています。自分の中で「変わりたい」と思っても、なかなか旧態依然とした生活に甘んじてしまうんですよね。でも、大きな失敗をしたことで、強い変身願望が生まれて、変身欲求になることは体験したことありませんか?失敗という経験は、自己成長にの大きなきっかけになるんですよね。

そんな学生ひとりひとりが変身していく一コマ一コマを目にしてつくづく感じるのは、ゼミは学生時代最後に与えられた「再起動のチャンス」だってことです。

これまでは「覚える力」が求められて、テストで試されてきたんじゃないですか?そして、覚えていないものは覚えなさい、理数系でも解法のパターンを覚えなさい、というような勉強が多かったんじゃないですか?
でも、大学でゼミの勉強が始まってからは、(覚えることはたくさんあるけれど)その上に「考え出す力」や「形にする力」が求められるんです。「試験で答えられるように覚える」のではなく、「応用して活用していくために考える」のです。その目的は、考え抜いた末にたどり着いた研究成果物になるんです。

僕の個人的な意見ですが、大学教育というのは、専門学校のように社会人としての技術を学ぶ場所ではありません。もっとモノゴトの本質を見る目を鍛錬する場所だと思っています。何を学ぶのか?何を体験するのか?それが見えてくるのは、自分自身の知的好奇心がピピッ反応するアンテナの張り方によっても変わってきます。
探究するのは、同じような興味を持った人との議論の深め方かもしれませんし、たどり着いた成果そのものかもしれませんし、自分が発見した成果の伝え方かもしれません。多くのゼミでは、これら全部を目指していくチャンスがあるはずです。
専任教員の数だけゼミが開かれていて、テーマも多種多様ですが、ゼミ活動の共通項が「真理を追究する」ということは全教員の共通認識だと思うんです。

私が受け持つ本藤ゼミは、ゼミ創設以来、企業とのコラボレーションを基本活動としてきましたが、最近は悩み始めているんですよね。たしかに、実務的な考え方やビジネスの現場を学べる機会ですし、大倉喜八郎が目指した実践教育の遺志に沿っているとは思っています。
本藤ゼミ創設当時は、コラボをやるゼミがほとんどなかったので、差別化のために導入してきたのですが、最近は産学連携が様々な分野に浸透してきて、コラボ自体が差別化にならなくなってきたこともあります。

その他の自問自答も出てきます。
プレゼンに間に合わせるために帳尻をあわせてはいないだろうか、基本的な知識が欠落したまま議論しているのではないだろうか、就職だけのためにやっているのではないだろうか・・・。基本的な理解をしっかりしないままプレゼンをしても、そのプレゼンは相手を動かすことはありません。プレゼンは取り繕えても、質問に対しては、相手を納得させられません。本当に努めることなく、付け焼き刃で「かわしてしのぐ」ことに終始するようになり、結果的に「真理の追究」とは程遠い場所に行ってしまうのです。
それでは、締切を設定しなければ、じっくり研究や議論ができるかと言うと、だらだらしてしまって、集中力が高まる心理状態にならなかったりするんですよね。最悪な状態は、自分の意見の主張に拘泥する人と人の意見に迎合する人が導き出す成果は価値のある成果になりえるでしょうか?

大学教員というのは、研究だけに頭や時間を使っているわけではありません。個人差はありそうですが、時間の量だけを考えたら、ゼミの関連業務やゼミ生への対応時間の合計は、みなさんが想像している5倍はあると思ってくださって間違いないと思います。通常の授業であっても、経営学や商学といった学問領域は、新しい事例や研究成果が次から次へと出てきて、新しいことを取り入れようとすれば、これまた大学生向けの教え方を考えなければなりません。

でも、大学教員もみんながみんな自信満々に、自分が学生に示したことに確信をもって、そして引っ張っているわけではないと思います(少なくとも僕は確信をもっていませんし、いつも悩んだり迷ったりしています)。間違いないことは、大学教員も、それぞれの教員の価値観に基づいて、(研究だけでなく)あるべき教育にも心を砕きながら日々を過ごしてるということです。

ゼミには、引っ込み思案な学生もいれば、自分勝手な発言を繰り広げる学生もいます。責任感のある学生もいれば、そうではない学生もいます。謙虚な学生もいれば、自信過剰な学生もいます。パソコンに強い学生もいれば苦手な学生もいます。絵が上手だったり、語彙が豊富だったり、リーダーシップがあったり、事務能力が高かったり、様々な能力や多様な人格が集うゼミというコミュニティは、だからこそ発見できる真理もあります。
だからこそたどり着けない真理もあるのかもしれませんが、それは自分で追究すればいいので、やっぱりゼミのようなプチ「サラダ・ボウル」という化学反応を起こせる環境は貴重だと思うのです。

毎年「何かをつかみたい」という意欲を胸に抱いて、ゼミには「新入生」がやってきます。そして、多くの何かをつかんで旅立っていく人もいれば、残念ながらそうではない人もいると思います。「つかめる人」は、素直な性格であることが必要条件ですね。反省よりも弁解や主張が先行する人は、レクチャーもディスカッションも活かしづらいような印象はあります(指導する教員の教育方針にもよりますね)。

いずれにしても、大学時代にゼミに所属しないことは大学に入学した意味がないということだけは断言できます。ゼミでの活動が、大学生活において「最大の成長機会」だということは間違いないと思うのです。僕たちが悩んだり迷ったりし続けているのも、自分のゼミへの愛着はありますが、ゼミ生ひとりひとりへの責任を強く強く感じているからなんですよね。でも、ここで感じている責任は、決してゼミ生を全員就職させるためではありません。僕は「真理を追究するとはどういうことなのか」を理解してもらうためだと思っています。大学のゼミの付き合いが、将来に渡って長く続けられるのも、そういう普遍的なテーマを共有しているからだと思っています。
 
ゼミ研究報告会で、数多くのゼミの成果報告を聞いていて、そんなことを再認識してしまいました。


文責:本藤貴康(流通論、流通マーケティング入門、地域インターンシップ担当)


2013年12月18日水曜日

地域の企業に行ってみよう!!~ 東経大生・多摩信用金庫を訪問するの巻~

皆さん、こんにちは!!  経営学部の山本聡です(担当:中小企業経営論)。

TKU  Business  Blogも二回目の執筆になりました。ところで、経営学部で学ぶ「経営学」は一体、何のために存在するのでしょう? 私は、


現実の企業の経営をより良いものにするための方法を提示すること


が経営学の目的だと考えています。この目的のために、世界中・日本中の研究者が長い年月をかけて、企業を分析し、理論立てて、経営学を発展させてきたわけです。東経大の経営学の授業もそうした成果の一つだと言えるでしょう。ところが、企業は生き物。君達が経営学の授業や教科書で学び、ゼミで研究したことが、必ずしも現実の企業に当てはまるとは限りません。

 文学では本を読むように、工学では機械をつくるように、体育学ではスポーツをするように、経営学をよりよく理解するためには、学外に出て、実際に企業を訪問し、自分達の問題意識をぶつける必要があるのです。そして、そんな機会を東京経済大学の経営学部ではたくさん提供しています。ためしに山本ゼミの活動の一端を紹介しましょう。山本が専門とする「中小企業経営論」はその名の通り、「中小企業を訪問し、学ぶ」傾向が非常に強いのです。


東経大生・地域の企業を行く~ 多摩信用金庫 価値創造事業部様を訪問~


 東経大が立地する国分寺市は東京西部・多摩地域の中心部にあります。多摩地域は全国でも有数の企業の集積地。言葉を変えれば、経営学を学ぶ絶好のフィールドと言えるわけです。山本ゼミでは2014年度のゼミ・プロジェクトのため、多摩信用金庫の価値創業事業部様に伺いました。お忙しい中、まことにありがとうございました。

多摩信用金庫・Winセンターにて



自分達の意見をぶつけて、厳しいご意見を頂きます。
まだまだ準備不足。もっと勉強しよう!!



ハイ、チーズ!!:多摩信用金庫の方々と記念撮影



  さて、地域の企業を訪問し、問題意識をぶつけ、自分達の研究が認められると、地域でより多くの「学び」の場を得られるようになります。例えば、先日、立川で、多摩信用金庫様が主催された多摩地域の優れた中小企業を表彰する式典「多摩ブルー・グリーン賞」の授賞式に、山本ゼミのゼミ生も参加。今までお世話になった企業・自治体の方々に御礼を述べるとともに、新たなアドバイスも頂くことができました。こうした経験が学生の一生の財産になってくれれば、教員としてこんなに嬉しいことはありません。


多摩ブルー・グリーン賞・授賞式に参加



お世話になった地域の企業・自治体の方々に御挨拶。
新たなアドバイスを頂きます。



 どうです? 経営学・中小企業経営論っていろんな人との出会いがあって、面白いでしょ?君たちも東京経済大学で、一緒に経営学・中小企業経営論を勉強しませんか!!


追伸

 先日、ゼミ生と一緒に地域の鉄道会社:御岳登山鉄道様に伺いました。その際の社長様との記念写真。皆、よい笑顔ですね!!  社長様、ありがとうございました。





2013年12月9日月曜日

偶然は必然 - ある学生たちの1年



 気付いたら12月、師走、もう冬ですね。最近、本当に1年が経つのが早く感じられます。

 こんにちは。
 経営学部でリスクマネジメント論および保険論を担当しております柳瀬です。

 突然ですが、大学生の本分は何でしょうか?バイト?恋愛?就活?資格?… 

 答えは勉強と研究」です。

 はいはい。もちろん、聞こえてきますよ。「また、くそまじめなことを言いやがって。」という声が。でも、あえて繰り返します。大学生の本分は「勉強と研究」です。

 今日は、この「くそまじめ」なことを、学生生活のなかで最大限楽しんでいる”最近の若者たち”のお話をしたいと思います。キーワードは、「偶然は必然」です。

 さて、「最近の学生はやる気が感じられなくて。」という声を度々耳にします。ただ、これは違うと思います。むしろその逆です。ちょっとしたきっかけさえあれば、びっくりするくらい、彼らは頑張ります。成長します。やる気に満ちており、こちらも負けてはいられません。

 学問の秋といいますが、例年、秋から冬にかけて、私たち大学の先生にとっては、「学会」の季節に入ります。もちろん、年間を通して「学会」というのは開催されているのですが、やはり、秋から冬にかけて、たくさんの「学会」が開催されます。では、「学会」とは何でしょうか? ざっくり言えば、同じようなテーマで研究をする人たちが集まって、自分の研究テーマについて発表し、その問題点や改善点などを指摘し合うための「場」、ということになります。

 前置きが長くなりましたが、昨日と一昨日の2日間、全国21の大学から約300名、33の研究報告からなる、ある「学会」が開催されました。RIS (Risk and Insurance Seminar) といいます。もちろん、私たち、大学の先生たちの「学会」の話ではありません。大学生が主役の「学会」のお話です。
 学生のための「学会」は、実は、年間を通じて活動をしています。春と秋に2回、関東、関西、そして中国・九州という3つの地域で、地域ごとの研究発表会を開催します。最初の会合では、各大学(ゼミ)による1年間の所信表明、研究計画が披露されます。

夏休み明けの2回目の会合では、数か月後に迫った全国大会にむけて、徹底した討論合戦が行われます。ここでは、学生同士の討論だけでなく、複数の大学の先生が、他の大学の学生に対しても厳しいコメント、指導を行います。このとき、「手を抜かずに」真剣に準備をしてきた学生は一度は、かならず落ち込みます。「あれだけ頑張ったのに...」という不満、落胆の声です。彼らにとっては、想像をはるかに超える手厳しい批判にさらされるのです。

 ある女子学生は、別の大学の先生から次のような言葉をもらいました。「期待していたけど、今日の発表にはがっかりした。全く面白くない。」彼女は、自分が半年間一生懸命やってきたことをすべて否定された気持ちになったようで、「もうダメ。ゼミもやめる。何がなんだかわからない。」と泣きじゃくっていたことを思い出します。

 そして12月。この季節がやってきます。3つの地域すべての大学(ゼミ)が参加する全国大会であり、先ほど述べた大学生が主役の「学会」です。

学生たちは、この「学会」での最終報告のために、特に、秋以降はほとんど毎日、朝から夜遅くまで、数多くの作業(データ入力や分析、プレゼン資料作成など)を行い、そして、研究グループの仲間と徹底的に議論をしていました。本気になっていると感じました。時には、本気で「手を抜かない」仕事をしたいという気持ちがぶつかり合って、喧嘩もしていました。よく泣いていました。


 そして、当日が来ます。ぎりぎりまでこだわった研究を、彼らは発表します。全国大会には学生以外にもたくさんの実務家が、学生の熱意を感じるために参加します。ある学生は、普段はコンパで場を盛り上げてくれるタイプの、”いまどき”の明るい女子学生です。彼女はこの日の発表のために、何度も悔しい思いを繰り返し、まったく手を抜かず準備をすすめてきました。そのためでしょうか。手がぶるぶる震えて止まらないのです。しかし、やり切りました。その気迫は、私たちだけでなく、同じように真剣に手を抜かずに研究に取り組んできた他の大学の学生にも、自然と伝わります。

いわば、「大学を超えた本当の友人」ができた瞬間です。

 大会初日の夜は、大きな懇親会です。今年は、全国から約300名の学生が一堂に集まって、研究の話、学生生活の話、就活の話、恋愛の話など、大変に盛り上がりました。さっきまで、手がぶるぶる震えていた学生も、解放感でいっぱいのようでした。また、学生の研究報告を毎年楽しみにしている実務家の皆さんとも、非常に充実した時間を過ごしているようで、私も本当にわくわくしたのを覚えています。

と、ここまで読んでいただいた方の中には、もしかすると、「大学って楽しいところだと思っていたけど、相当、厳しい世界だな。イメージとかなり違う。これは参った。」と思っている人もいるでしょう。

しかし、断言します。その考えは間違いです。少なくともこのブログに登場した学生たちは、心の底から大学生活を楽しんでいると思います。だから、本気になれるし、泣くこともできるのだと思います。

 かつて、ある著名な経営者が次のようなことを述べました。「人生にはおもしろくないことがたくさん起こる。それは全て自分に責任がある。何かを気づかせるために起こるということを知っておいたほうがいい。この世に起こることは全て必然で必要、そしてベストのタイミングで起こる。」また、ある有名な哲学者も次のようなことを述べています。「人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。」

 考えてみれば、今回のお話に出てきた学生たちは、RISという「場」にたまたま出会うきっかけを得ました。そこで、「勉強と研究」に対して手を抜かずに真剣に取り組みました。途中、悔しくて何度も泣くことがありました。でも、その結果、もしかするとまったく触れ合うことなく4年間を過ごしてしまったかもしれないような学問や仲間と出会うことができました。

 おそらく、この「偶然」は「必然」なのかもしれません。では何が、偶然を必然に変える原動力なのでしょうか?この話は別の機会に一緒に考えたいと思います。


文責: 柳瀬 典由 (東京経済大学 経営学部 教授)